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Archive for the ‘大學’ Category

心不在焉

一心に向き合えば

そこに多くの気づきが生まれる

しかし

「心ココに在らざれば

見れども見えず

聞けども聞こえず

喰らえどもその味わいを知らず」

 

2017年暮れに

ふと『大学』の一文が思い出されました。

大學 朱熹章句 7

トウノバンノメイニイハク、マコトニヒビニアラタナリ、ヒビニアラタニシテ、マタヒビニアラタナリ
湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新。

殷朝の創始者湯王は、聖人の帝でありました。
自ら沐浴されるタライの縁には、
一句の教の詞が書き記してありました。
これが湯之盤の銘*で御座います。

その意図するところは、
タライといふ者は、湯水の器にして垢を洗い清むるためのものです。
タライを使うたびに、この銘が繰り返し目に入ることになります。
日々に心を新にして自分の徳を磨くように励むことになるのです。

コウコウニイハク、シンミンヲオコス
康誥曰、作新民。

自分の徳を明かにして
民にその徳を施し感化して
明徳に導くに例えています。

シニイハク、シュウハキュウホウトイエドモ、ソノメイコレアラタナリ
詩曰、周雖舊邦、其命維新

この詩の心は周の国も御代久しくなり舊邦となってまいりました。
聖人文王の御代に至て
天より仰せ付けらるる時節となり
大いに政道が明かとなり
人々の徳もたちまち新になりました。

コノユヘニ、クンシハソノキョクヲモチイザルトコロナシ
是故君子無所不用其極。

有徳の君子は其肝要の至極を用いるのです。
自ら徳を明かにして人を新にするを極と謂い
至善の極(いたり)であります。

有徳の君子は其肝要の至極を用いるのです。自ら徳を明かにして人を新にするは極であり至善の極であります。

右傳之二章、釋新民。

銘*心に刻みこんだ戒めなどの言葉。

平成庚寅年 立秋

大學 朱熹章句 6

コウコウニイハク、ヨク・トクヲアキラカニス
康誥曰、克明德。

 周の武王の御弟の康叔(こうしゅく)が衛の国主となされる時、
康叔へ教え誥(さと)された所の文ゆえ康誥とはいふ。
「克」の字は「勝」といふ字に通じて、誠に戦によって人に勝つように、
心の利欲・汚穢(けがれ)に勝ち、これを去り、
己が徳を明にすべしとの意である。

タイコウニイハク、コノテンノメイメイヲカヘリミル
大甲曰、顧諟天之明命。

 殷の第四代の帝・大甲に摂政伊尹がおしへ諭したる文なり。

明命とは天より明らかに明付(おふせつけ)られたる徳で、人みな是あり。
それが暗(くろう)なりはせぬかと心を付けて見るをいふ。
顧みるとは常に目を付けて見る意である。

テイテンニイハク、ヨクシュントクヲアキラカニス
帝典曰、克明峻德。

 聖人帝の徳を賛(ほめ)し文である。
後の世にても帝の徳を仰せ奉るという心なり。
堯帝、上天の徳にかなひたまふといふも
胸中にあるその明徳を天下へ推しおよぼし万民を恵みたまふなり。
かく峻(おほい)なる徳といふも、外(ほか)ならず。
但し常人はこの私といふ欲にくらまされて
克く明かにせざるを以てなり。

ミナミズカラアキラカニスルナリ
皆自明也。

右の三カ条といへども、外に替(かはり)しとならず。
自己にその志を立て徳を明(みがき)たまひしことにて
人の與(あづかり)知ることにあらずと曾子の御辭なり。

   
ミギデンノシュショウハ、メイトクヲアキラカニスルヲシャクス
右傳之首章、釋明明德。

右聖人の明徳を仰せられし意(こころ)を述べんとして
曾子此三つの語を御引きなされ釈(とき)たまひしなり。
是を伝文の首(はじめ)の章とする。
 

平成庚寅年 夏至

大學 朱熹章句 5

ミギケイイッショウハ、ケダシ・コウシノコトバニシテ、ソウジ・コレヲノブ。
右經一章、葢孔子之言、而曾子述之。
ソノデンノジュウショウハ、スナハチ・ソウジノイニシテ、モンジン・コレヲキス。
其傳十章、則曾子之意、而門人記之也。
キュウホン・スコブル・サッカンアリ。イマ・テイシノサダムルトコロニヨリテ、
舊本頗有錯簡。今因程子所定、
サラニケイブンヲカンガヘテ、ワカチテ・ジョジヲナスコト・サノゴトシ。
而更考經文、別爲序次如左。

 最初の「大学之道・・・」から。この「・・・未之有也」までを右經一章と言う。
おそらくは聖人孔子の御言葉にして第一の御弟子曾子が聖人の道を述べ記したものである。
さて、是より後の十章においても、曾子が孔子の御心を述べたの教であろう。
それをまた曾子の御門人が記録したものである。
昔は紙が無かったので、簡という竹の札を革糸に連ねた物に、書き記していた。
然るに、舊より伝わる本には、糸のとぢ切れによって、よほどの入れ違えの簡ありと見えて、
文くだくだしく、また意味不明のところがある。
今、幸いに程先生の吟味に基づきて、
殊に今、新に経の文を考え、章を別て十か条の次第をば左の通りにした。
是、朱子の文である。

平成庚寅年 芒種 

大學 朱熹章句 4

イニシエノ・メイトクヲ・テンカニ・アキラカニセント・ホッスルモノハ・マズ・ソノクニヲ・オサム
古之欲明明德於天下者先治其國。
ソノクニヲオサメント・ホッスルモノハ・マズ・ソノイエヲトトノフ
欲治其國者先齊其家。
ソノイエヲトトノエント・ホッスルモノハ・マズ・ソノミヲオサム
欲齊其家者先脩其身。
ソノミヲオサメント・ホッスルモノハ・マズ・ソノココロヲ・タダシクス
欲脩其身者先正其心
ソノココロヲタダシクセント・ホッスルモノハ・マズ・ソノイヲ・マコトニス
欲正其心者先誠其意。
ソノイヲ・マコトニセント・ホッスルモノハ・マズ・ソノチヲ・イタス
欲誠其意者先致其知。
チヲイタスコトハ・モノニイタルニアリ
致知在格物。

 これを八条目と言う。
物事には、先に行うべきものと後にするべきものがあり、これを本末終始の理という。
古の明徳ある御方は、天下を正しく治めようと思う(欲)ときは、
先ず、手前一国の人々に徳を施し恵み給う。
また、国を治める者は、先ず己が家のとりしまりを良くできなければ
国はよく治まるものではない。
さて、家を正すには、我が身の修まりなくては斉(ととの)はない、
その吾が身体の修まる本は心である。
もし、心が正しからぬ時は、身持ちの修まる理は無い。
さて、心の本を意といふ。一寸にても心に根ざすところが誠ならずしては心正しくはなるべからず。
さて、意を誠にしよう思うならば、あらゆる物事の理を推し計りて「かようなるが即ち道である」と、
知ることに致れば、自ずから意も誠になる。
是を「知ることを致すは、物の理に格るに在り」とは言ふなり。
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モノニイタリテ・シコウシテノチ・チイタル。チイタリテ・シコウシテノチ・イマコトナリ。
物格而后知至。知至而后意誠。
イマコトニシテ・シコウシテノチニ・ココロタダシ。ココロタダシクシテ・シコウシテノチ・ミオサマル
意誠而后心正。心正而后身脩。
ミオサマリテ・シコウシテノチ・イエトトノフ。イエトトノイテ・シコウシテノチ・クニオサマル
身脩而后家齊。家齊而后國治。
クニオサマリテ・シコウシテノチ・テンカ・タイラカナリ
國治而后天下平。

 およそ物の理を知るに格(至)れば、心の智恵、明らかになるに至る。
知ることすでに明らかなれば自ずから意は誠になる。
意とは心の起こる処なり。意、誠実なれば心は正しきなり。
心正しくして身よく修まる。
その心の正しき我が身が、家の人を治め帰服なさしめて、家内は斉(ととのふ)。
家ととのふて、その影響が国中へ影響し、国々よく治まりて、自ずからに天下は太平と成るのだ。
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テンシヨリ・モッテ・ショジンニイタルマデ・イツニコレ・ミナ・ミヲオサムルヲモッテ・モトトス
 自天子以至於庶人壹是皆以脩身爲本。

 上は天子将軍より下は平人に至るまで、位の高下貴賤の品いろいろの別あれども、
一様(壱是)に第一とすべきは身を修るの一つなり。是を本を為すと言う。
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ソノ・モト・ミダレテ・シコウシテ・スエ・オサマルモノハ・アラジ。
 其本亂而末治者、否矣。
ソノ・アツクスルトコロノモノ・ウスク・シコウシテ・ソノ・ウスキトコロノモノ・アツキコトハ・イマダコレ・アラズ
其所厚者薄而其所薄者厚、未之有也。

 我が身を修めずして、人を正すことは難かしい。
例えば、糸が乱れたるがごとし。その本をとり乱して末治まる事は、まずありえない。
先ず主君を貴み敬いて、次に人の君をも敬うべし。
もし、身近な者を捨て置いて、他人に睦まじき事など、是は道ではない。
是を厚くすべき者を薄くすとはいふ。
本来行なわなければならないことを忘れず身を勤めて業をはげみてこそ、
後に天の冥加にかなうというものである。
いまだ身をこらさずして、祉(幸い)を求めようとしても、
この様な理(ことはり)あろうはずがない。

**冥加(みょうが) 眼に見えぬ神仏の助力。

平成庚寅年 立夏 

大學 朱熹章句 3

トドマルヲシリテ・シコウシテノチニ・サダマルコトアリ、サダマリテ・シコウシテノチニ・ヨクシズカナリ、
知止而后有定、定而后能靜、
シズカニシテ・シコウシテノチニ・ヨクヤスシ、ヤスウシテ・シコウシテノチニ・ヨクオモンハカル、
靜而后能安、安而后能慮、
オモンハカリテ・シコウシテノチニ・ヨク・ウ。
慮而后能得。

 止まる場に止まれば、ますます定まるというは、事物の道理である。
これはすべてにおいて通ずるものである。
まず、止まりて動くこと無ければ、定まるものなのだ。
長く定っておると心が静かになってくる。
さて、静かな安穏なる心持になってくると、何ごとも自由に思い計る事ができる。
よって、慮ることが軽はずみにならずに、各々その正しき道理を得る事ができるのだ。
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モノ・ホンマツ・アリ、コト・シュウシ・アリ、センコウスルトコロヲ・シラバ・スナハチ・ミチニ・チカシ。
 物有本末、事有終始。知所先後則近道矣。

本とは自分の明徳。
末とは他人の明徳である。
始とは自分の明徳を明らかにすること。
終とは、他人の旧く穢れた徳を、新しく清めることである。

このように、先にすべき事と後にすべき事が理解できれば、
聖人の行なう心に近づいたともいえる。

すべて事物には本末(もと・すえ)の定めがあるものだ。

我が主君や父母は本である。他国の君主や他人の親は末である。
本を先ず貴みて、次に末を貴む。
これが、本に始まりて末に終るべき道理である。

しかしながら、世の中には、我が両親には粗末な対応をしておきながら、
他人との交際には一生懸命で、世間からの評判の良い輩がある。
よくよく自分を戒めて、先後の道を失うべからず。

大學 朱熹章句 2

 

大學之道在明明德、在親民、在止於至善。
1:明明德・・・・明徳を明らかにする。
2:親民・・・・・民を親(新)たにする。
3:止於至善・・・至善に止まる。
この段は、大学第一の所であり、この三ヵ条を大学肝要の三綱領という。
綱領とは、網の綱・衣の衿との心を意味する。
すべての事柄はこの三綱領を基本に据えて学問せよとの意味である。
それ、人は天地(陰陽)の正しき気を得て生まれておるので、
形・心・振舞い・みな天地(陰陽)の法則に則して理解することができる。
天地の法則は、常に万物を照らしているので、
これが曇るという事は異常な状態である。
人の明徳である仁義礼智の心は、天地の気を胎内に受けた時に已に備わっている。
この事は孟子第四に詳しく記載がある。
いかなる子供も、父母に対して親しみ慕う心を持っており
これは、孝の心が既に備わっているからである。
世間では、楠正成公の様に運つたなく、中途に死したる人を、ふびんに思う心があり、
平清盛公のような一生涯富貴栄華を遂げた人をも憎むといふことがある。
是は皆、人は善を尊み悪を賤しむ正しい心が有るが故である。
しかしながら、幼少より悪しき事に見慣れ、また、聞き慣れてしまうと、
利欲という捨てがたき物に馴染んでしまい、
さすがに明徳が生まれながらに備わっておっても、
其の徳は曇って隠れてしまう。誠に嘆かわしいものだ。
そこで、自身の仁義礼智の徳の曇りを取り除き、明らかにする為に磨く。
この事を、明徳を明らかにすというのだ。
さて、自身の徳が明らかになりたる上は、大なる仁の心をもって他の人にも其の徳を及ぼすべきである。
他人の旧く穢れた徳を、新しく清める。この事を、民を親(新)にすというのだ。
明君が上に立つ時は、下(しも)・万民の徳は新(あら)たまり、
恵みを受ける。
さて、明徳を明らかにする。・民を親(新)たにする。の二か条にて言い尽きたるようであるが、
善の場に止まる事が継続しなければ、まだまだ学問は完成の域には達していない。
至善に止まる。とは是をいうのだ。
止(とど)まるという「止」の字を良くわきまえて、知る必要がある。
例えば、往くべき所へ往かずして、中ほどに在るのは滞るというものである。
往くべき所へ往き遂げて、安座いたし動かない。
この事を、止まると言うのだ。
善とは、偏らぬ中庸の心であり、理の正しく、過ぎる事無く、
また不及(とどかぬ)でも無い。自身で感得されよ。
例えば、心が曇り徳が乏しいのは、貧しき人に似ている。明徳明らかなるは、富貴たる人の様である。
上に立つ人が、貧しく曇っている人の徳を、救い清める事は
まさしく仁心の成せる業ではないか。
然れども、心を善の至極なる場に止めなければ、
せっかくの徳行も名聞又は自身の為に偏ってしまう事は免れ難い。
こうなってしまっては、誠に恥ずかしい事ではないか。

ダイガクノミチハ・メイトクヲ・アキラカニスルニアリ、タミヲ・アラタニスルニアリ、シイゼンニ・トドマルニアリ
大學之道在明明德、在親民、在止於至善。


1:明明德・・・・明徳を明らかにする。
2:親民・・・・・民を親(新)たにする。
3:止於至善・・・至善に止まる。

この段は、大学第一の所であり、この三ヵ条を大学肝要の三綱領という。

綱領の意味は、網の綱・衣の衿であり、萬の理はここを本として引き上げるなり。

すべての事柄はこの三綱領を基本に据えて学問せよとの心である。


それ、人は天地(陰陽)の正しき気を得て生まれておるので、

形・心・振舞い・みな天地(陰陽)の法則を元に成り立っている。


天地の法則は、常に万物を照らしているので、

これが曇るという事は異常な状態であり、これを「変」と謂う。


人の明徳である仁義礼智の心は、天地の気を胎内に受けた時に已に備わっている。

この事は孟子に詳しく記載がある。

子供の時はいかなる者も、父母に対して親しみ慕う心を持っており

これは、孝の心が既に備わっているからではないか。


世間一般の人々にも、楠正成公の様に運つたなく、中途に死したる人を、ふびんに思ったり、

平清盛公のような一生涯富貴栄華を遂げた人をも憎むといふこと、

是は皆、人は善を尊み悪を賤しむ心が有るが故である。


しかしながら、幼少より悪しき事に見慣れ、また、聞き慣れてしまうと、

利欲という捨てがたき物に馴染んでしまい、

さすがに明徳ありながらも、其の徳は曇って隠れてしまう。

誠に嘆かわしいことだ。


そこで、自身の仁義礼智の徳の曇りを取り除き、明らかにする為に之を磨かねばならない。

この事を、明徳を明らかにす(明明徳)というのだ。


さて、自身の徳が明らかになりたる上は、

大なる仁の心をもって他の人にも其の徳を及ぼすべきである。


他人の旧く穢れた徳を、新しく清める。

この事を、民を親(新)にす(親民)というのだ。


明君が上に立つ時は、下(しも)・万民の徳は新(あら)たまり、

恵みを受ける。


さて、明徳を明らかにする。民を親(新)たにする。の二か条にて言い尽きたるようであるが、

善の場に止まる事を極め尽くさなければ、心入れ浅くしてまだまだ全うしたとは言えない。

至善に止まる(止於至善)とは是をいうのだ。

止(とど)まるという「止」の字を良くわきまえて、知る必要がある。


例えば、往くべき所へ往かずして、中ほどに在るのは滞るというものである。

往くべき所へ往き遂げて、安座いたして動かない。

この事を、止まると言うのだ。


善とは、偏らぬ中庸の心であり、理の正しく、過ぎる事無く、

また不及(とどかぬ)でも無い。自身で感得されよ。


例えば、心が曇り徳が乏しいのは、貧しき人に似ている。

明徳が明らかなるは、富貴な人の様である。

上に立つ人が、貧しく曇っている人の徳を、救い清める事は

まさしく仁心の成せる業ではないか。


然れども、心を善の至極なる場に止めなければ、

せっかくの徳行も名聞又は自身の為に偏ってしまう事は免れ難い。

こうなってしまっては、誠に恥ずかしい事ではないか。

 

平成庚寅年 雨水

大學 朱熹章句 1

朱熹章句
朱は姓、熹は名。宋の時代のすぐれた儒学者である。
この1巻の章句を礼記より分けて下された。
子程子曰、大學孔氏之遺書而初學入德之門也。
於今可見古人爲學次第者、獨頼此篇之存。
而論孟次之。學者必由是而學焉、則庶乎其不差矣。
この心は、この大学の書は孔氏の家に代々伝わり遺されている書である。
即ち、聖人孔子より伝授されたる書物といえる。
儒学を学ぼうとする者が、道徳とは如何なるものかと伺う
入門の書である。
現代の人が儒学を学びたいと思い立った時
昔の人の学問を進める過程はこの様なものだと知ることができる。
それも、この大学の書がこの世に存在するお蔭である。
この書を読み終えたら、論語、孟子と順に学問を進めて行くと良い。
儒学を志す者は、必ずこの書の教えに従って学び行けば、
聖人孔子より直々に教えを受けるにも似たりといえよう。
程子とは、宋の時代の大儒学者程明道先生である。
子程子と子の字が二つあるのは尊敬の意を示す。

シュキ・ショウク
朱熹章句

朱は姓、熹は名なり。

宋の時代の大儒学者なり。

この1巻の章句を礼記より分けて下された。

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シテイシノ・イハク、ダイガクハ・コウシノイショニシテ・ショガク・トクニイルノ・モンナリ。
子程子曰、大學孔氏之遺書而初學入德之門也。
イマニオイテ、コジン・ガクヲスルノ・シダイヲ・ミルベキモノハ、ヒトリ・コノヘンノ・ソンスルニヨル。
於今可見古人爲學次第者、獨頼此篇之存。
シコウシテ、ロンモウ・コレニツグ。ガクシャ・カナラズ・コレニヨリテ・マナベバ、スナハチ、ソノ・タガハザルニ・チカシ。
而論孟次之。學者必由是而學焉、則庶乎其不差矣。

この心は、

この大学の書というものは、孔氏の家に代々伝わり遺されている書である。

即ち、聖人孔子より伝授されたる書物なり。

儒学を学ぼうとする者が、道徳とは如何なるものかと入るべき入門の書である。

現代の人が儒学を学びたいと思い立つ時に

昔の人の学問を進める過程はこの様なものだと知ることができる。

というのも、この書がこの世に存在するお蔭である。

この書を読み終えたら、論語、孟子と順に学問を進めて行くと良い。

儒学を志す者は、必ずこの書の教えに従って学び行けば、

聖人孔子より直々に教えを受けるに近くして、違うことなしといえよう。

程子とは、宋の時代の大儒・程明道(てい・めいどう)先生なり。

子程子と子の字が二つあるのは尊敬の意を示す。

平成庚寅年 立春